「人間は、みんな、同じものなのよ」
彼女は、俺の鼻先でそう呟いて、軽くくちづけた。
この子はすこし虚言癖があるので、俺はいつものように、へえ、と答えて、適当に聞き流した。俺の背中に回していた腕を解いて身を引くと、横で体育すわりをしながら髪の先を弄んでいる。
「みんな自分を他人と違う存在だと思っているかもしれないけど、同じなのよ。みんな同じ一人の人間なの。人間だけじゃないわ、動物も、植物もね」
「そうなんだ」
「雅人には、まだわからないかもしれないわね」
視線を俺に戻し、小首をかしげて悪戯っぽく言う。俺は彼女のこの表情が好きだ。
「ばかにするなよ」
ほんとうはどうでもいいのだが、こういう時は少し拗ねたふりをしてやった方が彼女は喜ぶ。
「だってばかなんだもの。雅人にはまだ早いけど、教えてあげるね。私と雅人の違いはなあに?」
優越感に浸った彼女は、くすくすと笑いながら俺に問いかけた。幼児をあやすように。
「なにって…何もかも違うだろ」
「そうね、違うわね。この身を構成するDNAも、性格も、記憶も。でもその全部をとっぱらったら何になるの?」
「さあ」
「もしも私が、雅人と同じ両親の下に生まれて、雅人と同じDNAで、何もかも雅人と同じ環境に育ったら、きっと雅人と同じになるわ。そうじゃない?」
「ていうか、それは君じゃなくて、俺だろ」
「でしょ?」
してやったり、と言わんばかりに俺を指差してくるが、そもそも仮定がばかげていることに彼女は気づかないのだろうか。
「だからね、何もかもまっさらな状態はみんな同じなのよ、きっと。そしてそれは人間に限ったことじゃないでしょう。命あるものはみんな同じなの。単一の存在なの」
「ふうん…」
そろそろ話についていけないので目をそらすと、容赦なく追及してきた。
「ほら、雅人、もうついて来れなくなってる」
「まあ、正直、何を言ってるのかわからない」
肩をすくめて笑った。彼女はそんな俺を無知だと思い自己の優位を確かめて機嫌が良くなるはずだ。
「だからばかなのよ」
ふう、とため息をつきながらも嬉しそうだ。
いい気になった彼女は、饒舌に話す。適当に相槌を打っておけばそれで満足するのだから安いものだ。ついでに、ただ聞き流すんじゃなくて、一度話したことは憶えておいてやった方が、後の機嫌はとりやすい。
「私も、雅人も、同じ人間。“そうなっていたかもしれない自分”なの」
「同じ時間軸に同じ人間が存在するのか?」
「絶対的な時間なんて存在しないわ…人がそう思っているだけ」
「そういうものかな…まあ俺は物理的なことは知らないけど」
「物理なんか所詮、人間の知識の一つでしかないもの。真実は、もっと上のほうにあるの」
「君だってその人間のうちの一人だろ?」
「ええ。でもね、私は全知全能なの」
やばい、ちょっと持ち上げすぎたらしい。彼女は自分を、俺だけでなく、ほかの誰よりも優位だと勘違いしているようだ。
「人はみな同じ人間だと、気づいてしまったから。それなら私は、ほかの誰かに出来ることなら何でも出来る。ほかの誰かが知ったことはみんな知ることができる。だってそれは私なんだもの」
「じゃあここで円周率を暗誦してくれよ」
「もう、言ってる意味全然わかってないのねえ。今の私にはできないわよ、そんなこと。でも、それができる私もいるかもね」
軽く揚げ足を取ってみると、案の定、眉をひそめて自己弁護を始めた。俺はそんな彼女が可愛らしくて思わず髪を撫でる。
「それを言い始めたら、可能性は無限大だな」
「ええそうよ…私には何でもできる」
「できる可能性があるだけで、今の君には出来ないだろう」
「いいのよ、それで…ね?」
長い睫毛を震わせて、俺を見上げた。そっと彼女の肩に手を回す。
「私も雅人も、同じ存在から始まったの…だから自分を相手に愛したり憎んだりしているのよ」
「なんだかそれは少し寂しくない?」
「寂しいわ…でも仕方がないわね。全てを知った者の宿命なの」
今度は俺の方からくちづけた。やわらかな唇の感触を貪ることに集中した。
真実はたった一つだと言うけれど、人から教わったものは知識でしかない。真実は自分で掴み取ったものの中からしか見つけられない。他人がどれだけそれは妄想だと否定しても、彼女自身がそう思わない限りはその言葉を信じないだろう。
彼女のこの思想は他人を否定することから生まれた。正しくは、他人より劣る自分を否定することから生まれた。こう考えれば、自分より遥か高みにある人間を妬まずにすむ。「自分も彼と同じに生まれればああなり得た」と。
彼女と同じように俺は自分自身で見つけた真実しか信じない。
人はみな違うのだ。彼女が言うように、始まりが同じであったとしても、違う過程を経て違う形に出来上がった俺と彼女は単一ではあり得ない。
彼女は、確実に、俺よりも劣る存在だ。
そして、そんなのは、どうでもいいことなのだ。
俺と彼女が同じであろうと違っていようと、どちらがより優れた存在であろうと、いま、この快感に勝る真実はいずこにも存在し得ない。