奴はあの独特の僻んだ様な目つきで君も欠落してしまえば良いのだと言った。

 

 月が低い、とカンパネラは思った。夕暮れの青からピンクへのグラデーションを映し出した空の、今にも家の屋根に隠れそうな低いところに、濃い黄色の月が押し付けられたように浮かんでいる。…いや、もうほんとうに隠れてしまった。もう少し見ていたかった気もしたが、ブレーキはかけずに坂道を自転車で下る。目指す自販機はすぐそこだ。

 また、月が見えるかもしれないと思って空に目を遣ったがやはり見えず、ほんの少しの失望とともに視線を戻した先にはさっきまでなかったはずのものが現れていた。

「!!あぶな…っ」

 とっさにハンドルを右に切ると勢い余った自転車は派手な音を立てて横転する。

 黒い髪の少年が、少し顔を上げて首を巡らせた。

「…っどっこ見て歩いてんだ!気をつけろってんだ、馬鹿野郎!!」

 目の前で転げた自転車に対して余りに小さすぎる反応に、カンパネラは腹立たしく言葉をたたきつけた。

「なに?」

「何じゃねえよ!見りゃわかんだろ!!」

 当たり前なカンパネラの主張に少年は首をかしげ、当たり前でない返答をした。

「見えない」

「…ああ?」

 

 何でめくらが夕方に散歩なんかしてやがるんだ。そんなの不条理だ。俺はゆるさねえ。

 カンパネラは心の中で何度も悪態をついた。しかしそれを本人の前では口に出来ないのが彼の性格だったから、何故だかこの少年を家まで送り届けることになってしまった。

「夕暮れ時が好きなんだ」

 カンパネラの疑問を感じ取ったかのように突如少年は口を開いた。

「見えないんだろ」

「うん、でも空気が違うんだ」

「ただの勘違いか思い込みじゃねえのか」

 カンパネラはからからと自転車をころがしながら、この少年のお喋りに付き合った。

「そうかもしれない。それでもいい」

「何で」

「だって僕がそうだと思うならそれでいいじゃない」

「良くねえよ。だって勘違いなんだろ」

 少年が車道に出そうになるので引っ張る。

「そんなの世界の一面的な見方に過ぎないよ…、…痛い」

「わけわかんねえよ。それからな、痛い思いしたくないんならおとなしく家にいろってんだ。そうでなくても付き添いとか、盲導犬とかだなあ」

「案外常識家なんだね」

 少年は、こっちの言うことを聞いているのかいないのか、はぐらかすようなことを言う。その横顔を見てカンパネラは何で今自分はこんなところにいるのだろうと思う。ちょっと飲み物を買いに出ただけなのに。

 カンパネラが返事をしないから少年は勝手に言葉を継いだ。

「金髪になんか染めてるからいい加減な人かと思った」

「俺は金髪じゃねえぞ。茶色いけど」

 つい、返事をしてしまう自分が哀れだ。

「当てずっぽうだよ」

 カンパネラは、このわけのわからない自称盲目の少年が、光の届かぬ目を細めて笑うのを見て、こいつはろくな神経してないぞとため息をついた。

 

 コンビニに着いたのでカンパネラは自転車を転がす手を止めて言い放った。

「着いたぞ、コンビニ。この近くなんだろ」

「うん、…多分」

 末尾の『多分』が気にかかったが、別にこれ以上付き合う義理はないしここまで来たのがそもそも自分の義務以上のことで、ウッカリ自分の家の近くで交通事故に遭われでもしたら寝覚めが悪いくらいの気持ちによる親切ならこれで十分だ、と我ながら頷いたカンパネラは踵を返して背中越しに

「待ってりゃあ誰か探しに来んだろ。ふらふらすんじゃねえぞ、あぶねえから。じゃあな」

と吐き捨てた。

 返事がない。

 つい習性で振り向いてしまう。そして見なくてもいいものを見てしまう。

 カンパネラに背を向けた少年はおぼつかない足取りで横断歩道に足を踏み入れていた。田舎で車が通るのも稀な場所だから信号機もついていないけれど。

 なぜ、近づく車のタイヤの音も聞き取れないのか。

 自転車を放り出したカンパネラは、差し出した右手に白い襟首をつかんで力任せに引き戻した。金属が地面にたたきつけられる大きな音がした。車は軌道を乱しながら走り去っていく。

「痛いよ」

 捕まれた襟元をそっけなく振り払って少年は言った。

「もう少しまともに助けられないの?」

「うるせえ」

 カンパネラは自転車が壊れなかったかと心配をしながら今度こそ踵を返して、その場から立ち去った。けして振り向かぬように。

 

 

 盲滅法とかいうが、めくらってやつには法も無いらしい。

 再び夕暮れ時、自販機の前で座り込んでいる黒髪の少年を認めたカンパネラは呆れ返った。…しかし相手は目が見えないのだからわかるまい。知らぬ顔の何とやらで、黙って自販機に小銭を入れる。落ちてきた缶を取り上げて立ち去ろうとしたところで、

「今日は何を買ったの」

 少年の声は落ち着き払っていて相変わらず神経構造を疑わせた。誰彼構わずこんなことを言ってるのかコイツばっかじゃねーのと自分に言い聞かせ立ち去ろうとするとなおも

「この前は悪かったよ、無作法なことを言って。今日は母さんに連れて来て貰ったんだ。向こうの喫茶店で待ってる。日没にはまた僕を拾いに来るから、危なくは無いよ。頼みごとがあるんだ。君にしか頼めない」とためらいも無く言葉を次々に仕掛けてくる。

 今度は習性ではなく、純然たる好奇心が頭をもたげた。缶コーヒーのプルタブを上げ、一口飲むと言った。

「…誰に向かって喋ってるのかわかってるのか?」

「親切なヒト」

 ニコリと微笑む表情は奥が読めなくて、随分なやつだと思う。

 

 自販機の前に座り込んで話していたら本当に母親がやってきた。名前を呼ばれると少年は返事もせずに立ち上がった。声を聞いて当たりをつけたのだろう、二、三歩前へ出ると母親がその手を取って優しく引いていく。じゃあな、と声をかけると少年は返事もせず振り向きもせず代わりに母親が頭を下げた。

 缶コーヒーの最後の一口をあおって、随分なやつだと思った。

 

 それからしばらくは少年はどこで見かけることも無かった。あのコンビニの近くに住んでいるのなら学区も同じはずだと思うのだけれど見たことが無いからやはり盲学校にでも通っているのだろうか。そんなことも気になったのは最初だけで、やがて忘れた。道で大きなレトリバーを連れた人を見かけたときにあれは盲導犬だろうか、と思う程度のものである。

 

それでも約束の日が来たからカンパネラはあのコンビニへ行った。今度は自転車ではなく歩いて。コンビニの前の駐車場で座り込んで待っていると向こうから少年がやって来るのが見えた。一人だった。横断歩道の手前で止まって、左右の気配をうかがって、渡る。カンパネラはそのさまを見ていた。

「…随分なやつだよな、やっぱり」

 小声でつぶやいて、少年に声をかける。よう、めくら。少年は答える。やあ、親切なヒト。

「で、俺はどうすりゃあいいんだ」

「トモダチのところまで連れて行ってほしい。あの自販機の近く、川に橋が架かってるでしょ。そこに行く途中」

「何だよ、それじゃあ初めに会った時」

「うん、行こうとしてた。でも君が帰れって言った」

 少年はただそう言っただけで、何の感情も示さなかったがカンパネラは何だか自分のしたことが否定されたようで少しいやな気持ちがした。けれどそれにしては今回自分を誘っているのが奇妙で、何だかよくわからない不快感があった。

二人はただ黙って歩いた。カンパネラが先導して、少年の手を引いた。そうすると少年は歩調が合わないから却って危ういだの、変に引っ張られると痛いだの文句をたれた。言われるとカンパネラも腹が立って手を離すがやがてちゃんとついてきているかどうか少年の足取りが気になって、しかし歩調を合わせるのなんか面倒だからぐいぐい引っ張ったりする。

「…今どこまで来たの」

「大工屋の前」

「じゃあそろそろだ。大きな桜の木の下」

「桜の木…ってわかんねえよ、そんなの」

 今は花はついていない。カンパネラは木の見分けなんてつかなかった。

「じゃあ大きい木を探してよ。近くに行けばきっとにおいでわかるから」

「…におい?」

 妙なことを言うものだと思ったがもういちいち突っ込む気にもなれなかった。どうとでも好きにしろ。そこらで一番大きい木を見つけてその前に少年を立たせた。

 少年は手を伸ばして木の肌に触れた。それから顔を近づけて頬を寄せる。じっと。

「いいにおいでもするのか」

 カンパネラは皮肉を込めて言ったつもりだった。

 少年は、うん、と言った。それから、声を殺して泣いていた。

 

「…トモダチって誰だよ」

 帰り道、沈黙に耐えられなくて聞いた。

「モモ」

「桃?」

「盲導犬だよ」

「ああ…。あの下に埋まってんの?」

「そう」

 少年はずっとおとなしくて別人のようだった。

「何でまた、あんなところに」

「父さんが。ペット霊園なんかに入れるよりいいって。地主さんにはないしょだけど」

「はあん」

 わかるようでわからない。カンパネラは半端な相槌を打った。

 それでまた会話は途絶えた。何か気まずかった。

「何で俺なわけ?お母さんとかにも連れて来てもらえるだろう」

「それはいやだったし他に知ってる人もいないし」

「お前トモダチいねーの?」

「しんじゃったから」

「…あっそ」

 カンパネラは、じっと、足の先に落ちる自分の影を見つめていた。

続く

※作中、一部障害者差別を助長するような表現がございましたが、作品性を尊重した上でのことであり作者側にそのような意図はございません。