あの男は私の目の前に立っていた。
「誰だ、おまえは」
「誰でもあり、誰でもある」
「ばかなことを」
「ばかなことではありません。あえて言うなら虚無と申します」
「虚無?」
「虚無です」
「私はおまえに誰かと聞いたんだ」
「だから、虚無です」
「ばかなことを」
「ばかなことではありません」
「私は、会った。おまえに。しかしそれはずっと昔のことだ」
「昔のことです」
「なのになぜおまえはそのままなのだ、私はこんなにも老いさばらえたというのに」
「それはわたしがわたしだからです」
「質問に答えろ」
「答えています。それはわたしがわたしだからです。わたしという虚無だからです」
「わけがわからない」
「わかっているはずです、あなたは。わからないと思っているだけです」
「わからない。私はおまえを知らない!」
「知っているでしょう。こうして目の前にいるのだから。あなたはわたしを知っている」
「知らない、知らない、知らない!」
「うそです、知っています。あなたはわたしだから」
「ばかなことを!おまえは私ではない。だからこうして会話しているのだろう」
「そうです、わたしはあなたではない。けれどあなたはわたしです」
「どういうことだ」
「それはわたしが虚無だからです」
「わけがわからない」
「それはわたしが完全なる無だからです」
「ばかな!おまえはここにいるじゃないか。あるじゃないか」
「そうです、わたしが虚無だからです」
「……」
「無とは常にそこに在るものです。どこにでもあり、どこにもない。無とは全、全とは無」
「まるで禅問答だ」
「そうですね」
「無とは…無とはなんだ?」
「なんでしょうか」
「完全なる無とは?」
「なんでしょうか」
「全てがなくなったらそこには何もない…虚無のみがある」
「無とは有」
「無がそこにある…しかし、それは、“無”という名の有ではないのか」
「そうですね」
「無は、どこにある?」
「どこにもない」
「無が無いなら有だ」
「有とは無」
「だから、完全なる無は常にそこにあるのだ…だってどこにも無いのだから」
「どこにも無いということはどこにも有るということです。それが完全なる虚無」
「私の目の前にも」
「そうです」
「おまえは…無か」
「そうです」
「では私はなんだ」
「無はどこにも有る」
「私も無か」
「つねに」
「ではなぜ私はここにいるのだ」
「ここにいるようで、ここにいないのです」
「ばかな」
「あなた、とは、なんですか」
「私は…私だ」
「その“私”は何を指すのですか。肉体ですか、精神ですか。精神とはなんですか。記憶ですか、人格ですか。肉体とはなんですか。脳味噌ですか、細胞ですか。あなたの肉体を構成する細胞がすべてあなたの精神を持っている可能性を、あなたは否定できるのですか。あなたの右腕が切り落とされた時、あなたの右腕が単独にものを考えていないと言い切れますか。そのとき本当のあなたはどちら側ですか。」
「……」
「あなたが存在している証拠はどこにありますか」
「そんなものはない」
「ではあなたはいない」
「違う、証拠など無くても私はここにいる」
「それは本当にあなたですか」
「私だ」
「あなたは一体なんですか?」
「私は、わたしだ」
「そうです、あなたはわたしです」
「誰でもあり、誰でもない」
「誰であろうと構わないのです」
「単なる現象なのです」
「無は有、有は無」
「全てであり全てでない」
「常に厳然としてそこに在る。ゆえにどこにも無い」
「それ以上でもそれ以下でもない」
「ねえ、あなたは本当に自分がそこにいると思っているのですか?」